ウクライナの短編小説を読んでみませんか

今ウクライナで起こっていることについて、戦争反対の一言に尽き、あとは黙してしまう自分がいます。そんな中ではありますが、十年ほど前に初めて読んだ現代ウクライナの短編小説集をご紹介します。

現時点まで僕が読んだことのある唯一のウクライナ文学の本なのですが、個人的に、こんな短編小説を書けたらいいなという創作のお手本として、折にふれ読み返している大切な1冊です。

現代ウクライナ短編集
現代ウクライナ短編集
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ウクライナの現代作家によって1980年代から90年代に書かれた、16の短編小説が収録されています。特に好きなのは、1番目収録の「新しいストッキング」、3番目の「暗い部屋の花たち」、12番目の「桜の樹の下で」です。

少し謎めいた、感覚にじかに訴えかけてくるような淡い質感の、それでいて凛とした語り口が想像をかき立てる、どちらかといえば西洋というよりも日本文学の雰囲気に近いものを感じます。身近な出来事を題材に、人間の孤独、はかなさ、無常観などを描いた作品が多いという印象です。

家族関係において何らかの問題を抱えている登場人物が其処此処に出てくるのも特徴的です。老母に頭の上がらないダメ夫と孤立する嫁、機能不全夫婦、実家の親と顔を合わせるのを億劫がる女学生、等々。

家族の絆というものに対してどこか懐疑的なスタンスが感じられるのは、僕の偏った読み方もあるのかもしれませんが、例えば4番目収録の「しぼりたての牛乳」は、家族からネグレクトされている少女のお話です。どれだけ虐げられても、家族に対してひたむきな愛情を示す子どもの純心が痛切に伝わってくる作品です。

また、8番目収録の「天空の神秘の彼方に」は、農業集団化の政策により引き起こされた1930年代前半の大飢饉のことを扱っていますが、この小説で描かれる悲劇、人々の苦しみや深い悲しみに現在の状況を重ね合わせて読んでしまうのは、僕だけではないと思います。

色々と書きましたが、この時期にこそ、ウクライナにはこんなに素晴らしい文学作品があるということを、是非とも知っていただけたら幸いです。

それでは。

 

黄色い花だということさえ知っていれば幸せ

僕の住んでいる地域では、今が桜の花の盛りです。天候が悪いせいもあって、ここ数日、外出しても桜をあまり目にしていませんが、雨の下でしっとりと咲いているであろう姿を心に思うだけでも、楽しいものです。

屋内に籠っている内に、花の季節が終わってしまっても、それはそれで趣深いとか何とか、徒然草にも書いてあります(137段)。目の前に咲いていなくても、思いを馳せれば、そこに花はある。気取っているのではなく、我ながら老人のような心境で、わしには見える、そう思います。

桜の季節に読みたくなる本など、枚挙にいとまがありませんが、鷺沢萠さんの「ケナリも花、サクラも花」はいかがですか。著者の韓国留学体験記である本書の表題作(第7章)、ここに出てくるケナリ(개나리:レンギョウ)の花のエピソードが好きです。

ケナリも花、サクラも花 (新潮文庫)
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レンギョウ。桜と同じ春の花で、黄色い花だというのは、この本を読んだ時に知りました。それ以上のことは、いまだ何も知りません。どこかで目にしているかもしれないけれど、これがその花だと識別することはできません。それっぽい黄色い花を見る度に、もしかしてこれがケナリかな? と無闇に胸おどらせる。何年も、そこ止まりの状態です。

検索すれば、どんな花かはすぐに分かるでしょうが、検索しません。きっと、きれいな黄色い花の画像がたくさんヒットするでしょうが、それを見てしまうと、ケナリという花に対する僕なりの思い入れが、中途半端に完結してしまう気がするからです。

どんな形でもいいから、実際に、出会いたい。どこかの公園で樹名札を見て、あ、これがケナリか、とひとり心でつぶやく日が来るかもしれない。だれかと歩いていて、ほら、レンギョウが咲いてるよ、と教えてもらう日が来るかもしれない。

消極的な感傷に浸りながら、そんな日は結局のところ来ないとして、それもまた、よいではないですか。月や花は目で見るもんじゃない、兼好法師はそう仰っていますから、レンギョウの花は検索するもんじゃない、はばかりながら、僕もそう言わせてもらいます。

徒然草も読んでみますか。佐藤春夫訳でどうぞ(対訳ではないのでご注意を)。

現代語訳・徒然草 (河出文庫)
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それでは。