#73 シュペルヴィエル 『飼葉桶を囲む牛とロバ』 ~無私への祈り~

「おすすめ文学 ~本たちとの出会い~」

第73回目。一人きりでも、大切な人たちに囲まれていても、なぜだか変わらず無性に切なくなる。アフタークリスマスの余韻が残る日々、そんな不思議な気持ちをひそかに抱くあなたに読んでほしい作品です。

海に住む少女 (光文社古典新訳文庫)
(↑書名をタップ/クリックするとAmazonの商品ページにリンクできます。)

 

★     ★     ★

#73 シュペルヴィエル『飼葉桶を囲む牛とロバ』 ~無私への祈り~

ウルグアイ出身のフランス詩人・作家のジュール・シュペルヴィエルJules Supervielle. 1884-1960)の短編「飼葉桶を囲む牛とロバ」。生まれたばかりのキリストを見守る牛とロバの視点で語られる、切なくも心温まる物語です。

出典:シュペルヴィエル作/永田千奈訳 『海に住む少女』より、「飼葉桶を囲む牛とロバ」 光文社古典新訳文庫,2006年初版第1刷

 

★     ★     ★

そこはベツレヘムの家畜小屋。聖なる夜、飼葉桶の中には幼子が眠っています。それを静かに見守るのは、ヨセフとマリアが道中連れていたとロバでした。

気取り屋で立ち回りの上手いロバと比べて、牛は不器用で自信がなく、周りにひどく気を遣う性格をしていました。赤ん坊のイエスに息を吹きかけて温めてやった後も、その行動を慎重に振り返り、自責の念にかられるほどです。

子供を温めようと近くに寄りすぎたことに思いあたり、牛は急に怖くなりました。ちょっとしたはずみで、角が赤ん坊に当たってしまったら、とんでもないことになっていた!

(p.27)

その過剰なまでに行き届いた思いやりと謙虚さから、やがて牛は身動きが取れなくなってしまいます。目の前に広がる清らかな世界を、自分の不注意のせいで少しでも汚すわけにはいかないと、彼は思い悩むのです。

周囲では、いまやあらゆる生き物から草花に至るまで、こぞってイエスの誕生をよろこんでいる。そんな状況で、野の草一本すら食べることなどできないと牛は自粛します。食事をとらず、やがて水も飲まなくなり、しかしそれでも彼はこの祝福の場に立ち会えて「幸せだった」のです(p.31)。

自分に許されているのは、イエスのためにちょっとした配慮をすることぐらいだと牛は思っていました。小屋のハエを自分のほうにひきつけておくことや(・・・)、壁にとまった虫を退治しておくことぐらいです。

(p.34)

来る日も来る日も、牛は自身に許されている(と彼が信じている)役割だけをひっそりとこなしました。そうして、ヨセフ一家がヘロデの追跡から逃れるためにベツレヘムを出立しようとする頃には、彼は衰弱して立ち上がることもできなくなっていました。

牛は思います。ああ、やっぱり僕はここに置いていかれるんだ。あまりにも美しい日々だった。こんなのがずっと続くはずないもの。

(p.55)

自己主張も自己肯定もせず、自虐的とさえ言えるほどに私心を持たず、ただひたすら他者を思いやる。生きづらい世の中を生き抜くために必要と叫ばれるマインドをことごとく排したかのようなこの牛の生き方を、皆さんはどのような思いで見つめることができますか。

一見すると報われない生涯を孤独のうちに閉じようとする憐れな牛が、しかしヨセフやマリアたちからいつも愛されていたことが、最後にそっと語られます。別れ際に彼らが交わした互いへの「気遣い」の美しい描写を、是非とも読んで味わってみてください。

シュペルヴィエル「飼葉桶を囲む牛とロバ」、おすすめいたします。

それでは。

 


おすすめ文学作品リスト
https://shinovsato.biz/recommendation-list/

佐藤紫寿 執筆・作品関連の記事(更新順)
https://shinovsato.biz/category/information/works/

 

定員のない狭き門

『フランス小ばなし集』という古い民話集を読んでいたところ、「聖ペテロの母親」というコルシカ島の民話が目に留まりました。

ペテロといえば、キリストの一番弟子であり、初代ローマ教皇とされている人物です。ところが、かの聖人ペテロの母親がなんと生前は性悪女だったと、そのコルシカ民話は伝えていたのです。

民話によると、死後、地獄に落ちてしまった母親を憐れんだ聖ペテロは、主イエス・キリストに母親を天国に入れてくれるよう懇願します。彼女が生前、何か一つでもいいから善行をしていなかったかと尋ねられたペテロは、彼女の生前の全記録(閻魔帳みたいなものでしょうね)を調べます。

さんざん探しまくった挙句、彼女は餓死寸前の男にネギの葉一枚だけを恵んでいたという、どうにか善行と呼べなくもない功績が見つかりました。よかった、俺のおっかさんも生粋の鬼婆ではなかった! 喜び勇んで報告したペテロはキリストの許しを得ると、さっそくネギの葉を天上から地獄の底までロープのように長く垂らし、それに掴まるよう母親に声をかけます。

ところが、ネギの葉を掴んで引き上げられていく母親に、他の罪びとたちも次々としがみつきます。これに腹を立てた母親は、彼らに足蹴りをくらわせるのです。ああ、そんな乱暴しないで、お友だちも一緒に上がらせておやりなさい、そう母親を諭すペテロ。

しかし彼女は息子の言うことに聞く耳を持とうとしません。横からひしひしと感じる、キリストの冷ややかな視線。やんぬるかな、ネギの葉を持った手をそっと離す、憐れな聖ペテロ……

ちなみにこの話に似た有名な小説が日本の古典にもありますよね。芥川龍之介『蜘蛛の糸』です。なお、芥川が『蜘蛛の糸』を書くにあたって直接の題材としたのはこのコルシカ島の民話ではなく、別の作品とされています。

蜘蛛の糸
蜘蛛の糸・杜子春
(↑書名をタップ/クリックするとAmazonの商品ページにリンクできます。)

 

どの作品かというのは諸説あるようですが、そのことについては勉強不足の僕が語っても仕方ありませんので、話をコルシカ民話に戻します。

「聖ペテロの母親」のようなキリスト教にまつわる民話や伝説は、類似の話がヨーロッパのいたるところで昔から数多く語り継がれていることは想像にかたくありません。スウェーデンの作家セルマ・ラーゲルレーヴSelma Lagerlöf, 1858-1940)の『キリスト伝説集』にも、「わが主とペトロ聖者」という作品が収録されています。

この短編がコルシカ民話「聖ペテロの母親」を題材にしたものなのか、そこまでは調べていないので分かりませんが、話の筋は概ね一緒です。『蜘蛛の糸』も含めて、国や時代を超えたそれぞれの作品に接点や繋がりがあるのは、ブンガクの面白いところだと改めて思います。

さて、コルシカの民話と大きく異なる点として、ラーゲルレーヴの「わが主とペトロ聖者」では、ペテロの母親は息子の差し出すネギの葉ではなく、キリストに遣わされた天使によって地獄から引き上げてもらうのです。

ペテロはキリストとともに天上からそれをじっと見守るわけですが、ここでも容赦なく性悪な人間に描かれる母親は、やはり自分だけ助かろうとして、彼女にしがみついてくる大勢の亡者たちの手を無理やりもぎ離そうとします。

このときペトロ聖者は声をあげて、おっかさん慈悲をかけて、と訴えたが、母親はすこしも耳をかそうとせず、同じしわざをつづけていた。

(『キリスト伝説集』岩波書店, p.304 ※1985年出版の大活字本による)

我が子が自分のためを思って心を砕きながら進言しているのに、まったく受けつけようとしない親。老いては子に従うべし、などと言いますが、いつの世にもありがちな親子関係の難しさですよね。

コルシカ島の民話もラーゲルレーヴの作品も、悪人は地獄に落ちるという単純な教訓ではなく、むしろ「どうしようもない親を持つ子どもの苦悩」に焦点を当てているように感じます。母親を引っぱり上げ(てから落とす)のが息子本人でない分、ラーゲルレーヴの方がペテロに対して同情的な視点で物語を描いているように感じます(あるいは真逆の解釈もあるかも)。

天使は深い悲しみの目で老婆を見おろすと、そのからだを支える手がゆるみ、そして天使は老婆を落してしまった、いまひとりきりとなってしまった老婆は、天使には持ちきれぬ重荷とかわりでもしたように。

(p.305)

天使には持ちきれない重荷、というのがとても意味深ですよね。物理的な重量でいえば、おそらく天使は何人でも楽々と抱え上げることができたはずなのに、たった一人の人間の心の醜さが生み出す「重さ」がもたらした悲劇の、なんと大きなことか。

天国というものが存在するのか僕には分かりませんが、もしあるとすれば、そこに定員はなく、必要なのは当人の心がけ一つということでしょうか。つまるところ、あの世でもこの世でも、人間として大切にすべきことは同じということですかね。

長くなりました。今日はこれにて失礼いたします。