自信を持つということ

もう8年以上前の記事になりますが、太宰治の短編「水仙」をご紹介していました。今回は、それについて補足めいたことを書いてみようと思います。

 

#13 太宰治 『水仙』 ~天才の条件~

きりぎりす (新潮文庫)
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「水仙」は、芸術を志す人間が己の才能を信じることができず破滅する物語ですが、当時の僕のひとまずの紹介文の締めくくりとして、「他人が自分をどう評価しようと構わない。大事なのは、自分が自分の力を信じること」と書いていました。

曖昧な理想論としてはそれでよかろうと今でも思うわけですが、しかし自分で自分を信じるにしても、水仙のナルキッソスのようにはいきません。僕たちの自信の根拠として、やはり外部からの承認があって成り立つ場合がほとんどなのが現実ですよね。

セルフエスティームだのアファメーションだのと言っても、それを自己完結の世界だけで実践するのは難しいと思います。フォロワー数や口コミなんぞ、他人からの評価にどれだけの価値があるのかと強がっても、不承不承、そこが目下の拠り所にならざるを得ないことが多いのではないでしょうか。

ビジネスでも芸術でも、ことさら社会的に支持されなければ活動が維持できない限りにおいては、まったく何もないところから湧き出てくる自尊感情だけで満ち足りることのできる人は、やはり少数派(あるいは天才)ということになりそうです。

そんな中で、大半の人間が自分のしていることに自信を持つためには、結局のところ他人からの是認や称賛をどこまで信じることができるか――単なるおべっかや社交辞令ではなく、その人が本当に自分を認めてくれていると確信できるか、そんな受け手の環境なり心構えなりが必要になってくるのかもしれません。

8年前の記事ではなぜかまったく触れていませんでしたが、「水仙」の冒頭は、「忠直卿行状記」という菊池寛(1888-1948)の小説のあらすじから始まります。

「忠直卿行状記」という小説を読んだのは、僕が十三か、四のときの事で、(・・・)あの一篇の筋書だけは、二十年後のいまもなお、忘れずに記憶している。奇妙にかなしい物語であった。

「水仙」 前掲書 p.302)

「忠直卿行状記」は1918年発表の作品なので、「水仙」の語り手の「僕(≒太宰)」が十三歳くらいの1922年頃に実際に読んだのでしょう。このかなしい物語が「水仙」のヒロイン静子夫人の辿る悲劇の伏線となっているので、物語をより深く味わうためにも併読をおすすめします。

※以下、「忠直卿行状記」について少しご紹介する上で、当記事では筑摩書房「現代日本文學大系44」から引用しますが、ご興味のある方のため、下記の岩波文庫のリンクを載せておきます。

恩讐の彼方に・忠直卿行状記 他八篇 (岩波文庫 緑 63-1)
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忠直卿とは越前国の主君、松平忠直(1595-1650)のことです。彼は武芸に秀で、大坂の陣ではその働きぶりが祖父家康にも認められた武勲の誉れ高き若殿様でしたが、その名誉欲と自尊心を維持するため、毎日のように家臣たちと弓馬槍剣の試合を行っていました。

腕っぷしの強い家臣たちを来る日も来る日も打ち負かし続ける忠直卿ですが、ある夜、家臣たちが忠直卿のために「わざと負けてやっている」のだと話しているのを耳にして以来、自分の力が信じられなくなり、やがて乱心していきます。

殿様の行状は一変した。真実を見たくて、狂った。家来たちに真剣勝負を挑んだ。けれども家来たちは、真剣勝負に於いてさえも、本気に戦ってくれなかった。あっけなく殿様が勝って、家来たちは死んでゆく。

「水仙」 前掲書 p.302)

家臣たちが何と言おうと、忠直自身が己の強さを信じ続けることが出来ていれば、このような惨事にはならなかったはず。とはいえ、他人の評価をいっさい拠り所にせず絶対的な自信を持つことの難しさを思えば、忠直の行動原理が常軌を逸したものだとは言えません。

確認行為を繰り返すように、他者からの承認を延々と求め続ける。もとよりその信憑性を疑っているのだから、根本の欲求は膨れ上がるばかり。しかし忠直卿には、他に方法がなかったのです。周囲にどれだけ多くの支持者がいても、主君という立場の彼はずっと孤独でした。

彼は、友人同士の情を、味わった事さえなかった。幼年時代から、同年輩の小姓を、自分の周囲に幾人となく見出した。が、彼等は忠直卿と友人として、交わったのではない。ただ服従をした丈である。

「忠直卿行状記」 前掲書 p.234)

では、忠直の家臣たちの全員がただ服従に徹するだけで、誰一人として主君と本気で戦わなかったのかといえば、実はそうではありません。小山丹後という老家臣は、忠直卿との囲碁の勝負では全力をもって相手をして負けています。

正直な丹後は、盤面に向かって追従負けをするような卑劣な心は、毛頭持っていなかった。

「忠直卿行状記」 前掲書 p.233)

しかしそのことを忠直卿は信じることができずに逆上、結果として丹後を切腹へと追い込んでしまいます。うわべだけの虚飾にまみれた人間関係において、その無数の声の中に一つや二つの誠実が隠れていても、それを見出し、それだけを一途に信じ抜くことは至難の業です。

同じことは、ネット上で不特定多数から承認を受ける場合でも言えますよね。心から信用しているわけではないのに、世の中の仕組みの故か、あるいは孤独感の故か、それを必要とせざるを得ない自分がいる。信ずるに足りない言葉をどれだけたくさん浴びても、永遠に満たされることはないと分かっているのに。

そんなジレンマの渦中で、それでもこの人だけは信じたい、信じることができる、自身を曇りなく映し出してくれる鏡のような存在が一人でもいたなら、幸いかな。いつかは裏切られ傷つくリスクはついて回るにしても、その人の言葉こそが、やがて本当の自信へとつながっていくのかもしれません。

リアルでもオンラインのみの関係でも、その違いはさほど問題にはならないと思います。もとより時代など関係なく、リアルの人間関係だって有為転変、まったくもってアテにならないのは世の常ですからね。

「水仙」の静子夫人でいえば、若い取り巻きの太鼓持ち連中ではなく、語り手の「僕」を初めから素直に信じることができていれば、そこに一人の天才が生まれていたかもしれない……だがそうはならないのが世の習い、人の性なのでしょう。語り手の「僕」だって、彼自身の卑俗なプライドから静子夫人と距離を置いていましたから。

この人こそはという他人を信じて、自分を深く委ねること。自信というものが自己完結で処理できないのならば、それがせめてもの救いなのかもしれません。そしてそれすらも上手くいかないのが現実で、だからこそ本当の自信を身につけている人というのは稀有な存在なのだと思います。

信じたい。でも信じられない。何も信じられないから、そんな自分が嫌だから、明らかな嘘や不誠実に真っ先にすがりついて自分を傷つけてしまう。いつの世も、悲しくも厳粛な、これが人生というやつでしょうか。

太宰治「水仙」、そして菊池寛「忠直卿行状記」、よろしければ読んでみてください。

長くなりましたが、今回はこれで終わります。

それでは。

 

『宮原昭夫小説選』を少しずつ読んでいく②

読み始めるとあっという間で、ちょうど真ん中あたり、350ページ弱まで到達。

折り返し地点にさしかかり、本の厚みが徐々になくなっていくのに名残惜しさを感じています。

宮原昭夫小説選

 

前回に続き、宮原昭夫小説選、読書レポート第2弾です。

1960年代の作品群はすべて読了し、1970年代の作品を半数ほど読んだところです。描写(特に人間の心理)がきめ細やかで、且つ親しみやすく、ヒューマンドラマの職人技という印象です。

昭和の風情を滋味豊かに添え、読者の深部にまで血を通わせてくる語りの技術に、思わず嘆息――どうやったら、こんな風に書けるのだろう。技量もさることながら、人間の内面を見つめる熱量がそもそも違うのかも。

 


前回「石のニンフ達」という作品について触れましたが、60年代から70年代へと一つ一つ読み進めていくうちに、宮原ワールドの領域の広さに圧倒されました。

たとえば同じ学園ものでも、「石のニンフ達」のような微笑ましい雰囲気とはまるでちがう、人間のどろどろした内側を暴き出すディープな世界観を扱っているのが、「火と水」です。

ある学校の女生徒が、夜道で何者かに暴行を受けて惨死する事件が起こる。事件に思いを巡らせる男性教師が、その残虐行為を細部まで克明に再現するような生々しい妄想を自身の中で繰り広げ、徐々に精神を蝕んでいく。

心の中で犯した罪は、実際に犯したそれとどこまでが違い、どこまでが同じなのか。現実と想像の境界が曖昧になっていく男の、「どうして、“あれ” はおれでないと言えるんだろう。」(p.253)という独白が、読み手に強烈なメッセージを委ねてきます。

これと似たテーマは、60年代後期の作品「風化した十字架」にも見られます。過去に犯してしまった罪について、直接関わった当人は忘れかけていたのに、ほとんど無関係の友人が、自分がやったものだと信じ込んで苦しみ続ける、というものです。

事実とは別の次元で罪が奇妙な独り歩きをする。しかしその責任の所在自体は決して消滅することはなく、誰かが目を背けるなら、別の誰かが必ず背負っていかなくてはならなくなる。これは戦争などにも通ずる古今普遍のテーマだと思います。

また、方向性は異なりますが、「あなたの町」という作品も、コミカルな雰囲気の奥底に漂う不気味さに引き込まれるものがありました。

ある町に引っ越してきた若者2人が、住み始めた途端、その町から一歩たりとも出られなくなるという話。隣町までふらっと遊びに出かけようとするだけで、住民という住民がいっせいに彼らを取り囲み、町から出ないよう阻止するのです。

町の住民たちは、2人の仕事や日々の食事など実にこまごまと世話を焼いてくれる、人懐っこくて親切な人たちばかりなのですが、なぜか彼らが町を出ることだけは絶対に許さない。その異様な過干渉に辟易した2人は脱走を決行します。

盗んだ車で走り続けるも、どうしても町の外に出られず、けっきょく元の場所に戻って来てしまう。車の持ち主から容赦なく訴えられるかと思いきや、「一言ことわってから乗れ」と怒られて、おしまい。町から出なければ、あとはどうでもいいようです。

「なんで奴らは、こう変に寛容なんだ。(・・・)そのくせ、こんりんざい町からは出そうとしないんだから」

(p.308)

と嘆く主人公の台詞が笑えますが、過疎に悩む自治体が若者の流出を本気で防ごうとするなら、いっそこれくらいやってもいいのでは(笑)。そんな町の人たちと若者の奇妙な攻防はまだまだ続くので、ご興味のある方は是非とも読んでみてください。

思考の深くまで誘う問題作から、肩の凝らないユーモラスな快作まで、迷い込むほどに裾野が広がっていく小説の世界が読み手を飽きさせません。

よい連休をお過ごしください。

それでは。

 

※作中の引用ページは「宮原昭夫小説選」(河出書房新社, 2007年初版)を参照しました。